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自由自由と書いてじゅじゅと読みます。遠距離恋愛のた~を追いかけて、とうとう大阪に来てしまいました。どうなることやら。。。そんな私のぐうたら日記 パートⅡ
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天気がいいので


お出かけしました。



待ちにまった紅型(びんがた)帯デビューの日です。

たんす屋バーゲンでゲットして以来、なかなか締めるチャンスがなく、12月になってしまいましたが、ようやくお披露目です。


この日をどれだけ待ち焦がれた事か。 喜びにうち震える自由自由 emoji




と言う訳で、行先は東大阪市の鴻池新田(こうのいけしんでん)です。
今回は2回に分けて書きます。




関係ないですが、途中でクリスマスのイベントやってました。記念撮影。
寒いのでショール担いでます。







鴻池新田会所(こうのいけしんでんかいしょ)に行きます。
鴻池新田とは大和川の付けかえ工事で新しく開拓された新田の事で、豪商、鴻池善衛門宋利と息子の善次郎によって着手されました。


ここは鴻池家による新田開発の拠点であり、水運を利用した集積場でもありました。
 

入口




入場券

 
 
 
国史跡、重要文化財です。

 


じゃじゃ~ん! 紅型帯登場です。




アップ。
オレンジや水色、紫、茶色、黄色、緑、藍などとってもカラフル。なので小物はどんな色でも合うのだー!この南国的な色数はきっと琉球紅型に違いないと勝手に思う自由自由なのです。

 
 
おめでたい扇柄です。
 
着物はこげ茶色のかぶら柄の泥大島。
これも株があがる出世するという意味があるので両方合わせて超~縁起もの。大出世間違いなし!(笑)


帯揚げはハロウィンの時に買ったオレンジの。帯締めはローズピンク。
ばっちしです。emoji

 
 
 
チェックの半襟はた~のパンツで作りました。破けたので捨てるはずでしたが、こういう風に蘇ったので、パンツも本望でしょう。

 

  


大和川はもともと、奈良から生駒山を抜けて大阪の柏原市を通り北に流れ上町台地に流れ込む川でした。くねくね曲がって色んな川と合流するので土砂が堆積し、ひとたび洪水が起こると周囲の農家は甚大な被害を蒙りました。

大和川の治水工事は古代から記録に残っています。ですが、流れを変える付け替え工事が具体化したのは江戸時代に入ってからです。もうこの頃の大和川は長年の土砂の堆積で川底が周囲の土地より高くなり堤防が決壊するたびに農家の被害もさることながら、その度に工事で多額の費用もかさんでいったのです。
東大阪の村々が幕府に誓願を出しましたが、付け替え工事によって土地を失う農家の反対運動もあり、実現までに50年も要しました。
 
 

昔の地図。
分りにくいですが、下が西で大阪湾。
左が北、右が南です。

 


そうして1704年に付け替え工事は完成し、大和川は西の堺の方向へ大きく流路を変えたのです。

今まで沼地だったところに広大な敷地が生まれました。そこに新田開発を行ったのが豪商の鴻池善右衛門なのです。(ふ~、真面目に解説)
 
 
 
建物を入ると広ーい土間があります。

 


かまどが並んでます。




なんとまだ使われてます。おじさんが薪でお湯を沸かしてました。
 

 

  
 


開発した新田には周辺から入植者を募りました。
会所には鴻池家から派遣された支配人がおり、小作農民からの小作料や肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の修理や補修、老人への米の配給、新田内での争いの裁定も行いました。
新田内には厳しいルールもあり、白砂(しらす)の上で時代劇みたいに裁かれたそうです。


なのでここで働いている人数はかなりだったと思われます。それだけの人数の賄いをしたのだから、かつてここは戦場の様に忙しかったんだろうなと想像できました。

反対側にもかまどがずら~り。
 




高い天井。梁の木も太いです。
煮焚きの煙は天井まで昇って自然の防虫効果にもなりました。




水桶、

 


中庭に出ると井戸に干し柿



鴻池新田では主に木綿を栽培していました。
わずかながら名残りの木綿畑がありました。




この時代は木綿の需要が多く、生産が追いつかない程でした。
なのでどこの新田でも木綿の作付が行われていました。
栽培した木綿をいち早く江戸へ届けるために菱垣廻船によるレースも行われ、賭けの対象にもなったそうです。



裏長屋門
昔は門の壁と使用人の住む長屋が合体した作りでした。
この壁の中は住居なのです。

 


船がありました。「井路川船(いじがわぶね)」というそうです。


 
 

新田内に作られた井路(水路)を通り、採れた米や綿を会所まで運びいれました。
江戸時代、河内と大阪の間は写真の様な剣先船(けんさきぶね)が使われていました。



会所の北側に設けられた船着き場から一時荷揚げされ、再び井路つたいに寝屋川へ出て大阪へ運ばれました。
 




船着き場阯です。塀の向こうは水路だったのです。






内庭から本屋を眺めたところです。

 
 
 
ちょっと休憩。

 
 
いいお天気なので庭でもパチリ。emoji
帯が陽ざしに映えてます。

 


 
 
 
続いて、本屋の中も見学しました。

 

広~い畳敷き。



中は六畳ほどの部屋に細かく分れてます。
茶室に使われた炉のあるお部屋もありました。

 

他にも沢山部屋がありましたが、奥に行くほど床が傾いていました。
裁定が行われた白砂のある箇所もそういうわけで立ち入り禁止でした。(残念)



畳敷きの廊下。
窓から陽がいっぱい差し込んで気持ちいいです。

  
 
和室側から土間を見たところ。こんなに広いのです。

 



と言うわけで、鴻池新田会所見学、前半でした~。


後半を乞うご期待。またねー!!emoji
 
 
 
 emoji
鴻池新田会所 パート2
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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