自由自由と書いてじゅじゅと読みます。遠距離恋愛のた~を追いかけて、とうとう大阪に来てしまいました。どうなることやら。。。そんな私のぐうたら日記 パートⅡ
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自由自由の
歴史探索
自由自由の歴史の勉強です。
今回は死後の世界、六道(ろくどう、りくどう)です。
民俗学の小栗栖健治(おぐりすけんじ)先生のレクチャーです。
六道とは仏教における死後の六つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の事で、生前の行いによっていきつく所が違います。この6つの世界を輪廻転生していくという教えです。
十界とはこれに、」
六道という言葉が日本で初めて登場したのは平安時代、源信の「往生要集」(おうじょうようしゅう)です。(歴史の教科書で習ったな)
先生が持ってきた往生要集の地獄絵の部分。原本らしいです。 写本の原本かな?
これ以来、地獄、極楽の概念が生まれ、地獄絵が数多く描かれました。
その中に「熊野勧進十界曼荼羅(くまのかんじんじっかいまんだら)」があります。
下は江戸時代の物ですが、このような勧進十界曼荼羅は当時大量に描かれたそうです。
(以下、4点の資料写真は講義のスライドを撮影)
(拡大してご覧ください)
下は地獄、上は人の一生を描いた山(老いの坂)です。
右からオギャーと生まれた赤ん坊が成長し、結婚し出世し、山の頂点が人生の頂点(金の扇を高く振りかざしてます)、左にいくにつれ人生の下り坂になり、最後は老いた妻だけが一人描かれ墓場行きとなります。
真ん中「心」の文字の下は先祖の供養をしている様子です。
十界とはこの六道に、声聞道、縁覚道、菩薩道、仏道をを加えて人間の心の状態を表しています。
古代から修験場だった熊野三山は平安時代、阿弥陀信仰の普及で天皇、上皇や貴族の参詣が盛んでした。でも奥深い山の為、修験者のガイドなしでは参詣できません。
院政の時代は寄進された荘園を財源として大いに栄えたのですが、鎌倉時代の守護、地頭の設置で直接管理が難しくなり、戦国時代に入ると武士が幅を利かせるようになり年貢が徴収できなくなりました。
そこで熊野の勧進活動の為組織され全国に派遣されたのが熊野比丘尼(くまのびくに)とよばれた尼僧たちです。
彼女たちは諸国を周り、ひとの集まる場所で熊野勧進十界曼荼羅を使って絵解きをし、美しい声で歌を歌い、護符を売り、熊野詣でを庶民に広くPRしたのです。
地獄は八大地獄と言って、等活地獄、黒縄地獄から始まり、叫喚~大叫喚地獄、焦熱~大焦熱地獄、阿鼻地獄(無間地獄)からなり、それはそれは恐ろしい残酷な絵が描かれ庶民は震え上がった事でしょう。
一番最後の無間地獄までは人間世界の時間だと2000年かかって落ちていくと言われています。もちろんどんな悪人でも浄土へ行けるのですが、それは気の遠くなるような天文学的な時間なのです。
「この世で悪い事をしたら、死んだらこんな地獄が待ってるねんで~。だから念仏を唱えて熊野にお参りして先祖供養もせなあかんよー」みたいな事を分りやすく絵を使って説明したのです。
関東からはお伊勢参りと熊野詣をパックにしたコースが江戸時代から人気になります。
小比丘尼(こびくに)と言う子供の比丘尼もおり、お布施を集めたり、お金の代わりに貰った米を背中に担いで荷物持ちをしながら、比丘尼の元で修業しました。
貧しい家の娘が預けられる事が多かったそうです。口減らしの為でもあったのでしょう。
江戸時代に描かれた地獄絵
閻魔様の前で衣服をはぎ取られ、木の枝にかけ、枝のたわみ具合で罪の重さが量られます。
「住吉神社祭礼図屏風」より
住吉大社の境内で絵解きをする熊野比丘尼。
山をさしてるので人の一生を解いてるのでしょう。
子供連れの女性たちが立ち止まって聞き入ってます。
庶民に家意識が生まれたころから、女性だけの地獄、賽の河原と言った子供の地獄というのも生まれました。これらは後世に付け加えれられました。最初はシンプルだった十界曼荼羅に色んな地獄が増えていったのです。
比丘尼の道行き
先頭の黒い頭巾は一人前の比丘尼の証し。熊野三山本願所より下賜されたものです。
帯を前結びにしてるのが遊女みたい。
確かに江戸時代になると都市部では、遊女と化した比丘尼も多かったそうです。でも地方に根付いた比丘尼は村のお堂に住んで、死者の供養をしたり墓守をしたりで一生を終えた者もちゃんといたそうです。
この話を聞いて自由自由はなぜか「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」を思い浮かべました。
岩下志麻と原田芳雄出演の映画です。
哀しいストーリーだけど映像が美しい。一見の価値あり。昭和初期まで現存した集団の民俗が分って興味深いです。
瞽女は生まれつき目の見えない女性の旅芸人の事です。小さい頃から預けられ三味線や歌を仕込まれ集団で村々を回るのですが、中には売春する者もいたようです。
話が脱線してしまいました。

平家に仕えた白拍子(しらびょうし)もそうですが、時代の変遷で聖なる存在ほど俗的なものに貶しめられるようです。
佐渡島に渡った比丘尼には島で最初の遊郭を開き、ゴールドラッシュに沸く佐渡金山で成功した者もいたそうです。
比丘尼たちはそんな聖俗の境界線上にいたのです。
明治5年の修験宗廃止令で街中での布教活動が取り締われ、それまで庶民と密着していた山伏や呪術師、祈祷師、物乞いしながら渡り歩く様々な民間宗教家が一斉に姿を消しました。
比丘尼たちのその後は分っていません。
哀れでちょっと苦しくなりました。
つづく。。。
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